ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス 99%の人が理解不能


ヒルベルトの
「無限ホテルの
パラドックス」を考察する









まえおき



物理学と数学の「正しい」の違いについて

知り合いの国立大学のアルゴリズム&人工知能の教授に

聞いたときの教授のお話です



【 物理学というのは仮説立てて、それによる帰結を導き

(ここまでは数学の話)


帰結が実際に観測されるかを確かめて、確認されたら採用されます




数学的に書くと、p が仮説

q1, q2, ..., qn が帰結だとすると



p ならば q1, p ならば q2 ..., p ならば qn

が、全て数学的に証明されていて


さらに、q1, q2, ..., qn が

全て実験的に観測された状況になれば

p が正しいとして採用されます


#一般に n が小さいときには、p は仮説として保留されます



ぶっちゃけた言い方をすると

状況証拠を積み重ねて正しさを示します



但し、p が厳密に正しいと証明されたわけではありません

正しいと信じるに値する という言い方が正しいと思います




このような証明の仕方を「帰納証明」と言いますが

自然科学における正しさは、全て帰納証明に基づいています


ですから、自然科学において「絶対に正しい」という言葉は嘘です


状況証拠でしかない以上、絶対的な正しさは証明できないのです



これが自然科学の限界とも言えます



昔、「原子力発電所は絶対に安全」と言っていた人は

完全に詐欺師です


帰納証明に絶対はありません 】



これに対し


【 数学というのは、自然科学(物理学、化学、天文学など)

とは違い、数学自身が研究対象の学問です


それゆえ証明された数式は

査読(専門家による検証)ミスがない限りは

数学上では、絶対に「正しい」のです



数学の証明は

演繹(えんえき)法の代表である

「三段論法」を繰り返えすことによりなされます



三段論法とは

前提条件 A=B  B=C → 結論 A=C です


演繹法は、A=B  B=C という法則(公理)から

A=C という新たな法則を、導き出していくわけです



演繹法は、前提条件が正しければ

導き出される結論も必ず正しくなります


これは、演繹法は

前提条件 A=B  B=C を

A=C に、言い換えているだけだからです 】




この「無限ホテルのパラドックス」は

数学的に「正しい」とされています







① 満室だけど宿泊可能?



本題に入ります



このパラドックスは

現代数学の父と称される

ヒルベルト(1862~1943・ドイツの数学者)が考案したことから

正式には「ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス」

といいます


≪無限≫の概念を理解させるために作ったパラドックスらしいです


99%の人が理解不能なパラドックスなんだそうです



いきなり文章では辛いかもなので


https://www.youtube.com/watch?v=jqLQXxJc428

ダークぱんだ さんの【ゆっくり解説チャンネル】

に、とても分かりやすい説明があります




このホテルは

前提① : 満室である

前提② : 客室が無限にある



そこへ1人の客が「宿泊したい」とやってきます


客室が有限なふつうのホテルなら

「満室である」 =

「新たに来た客を泊めることはできない」です



ところが、無限ホテルでは

客室が無限なので


1号室 → 2号室   2号室 → 3号室

3号室 → 4号室   4号室 → 5号室


というように

宿泊しているお客に1つずつズレてもらって


最初の部屋を空けることで

新たに来た客を泊めることはできる



30人の団体がきたならば

1号室 → 31号室   2号室 → 32号室 

3号室 → 33号室   4号室 → 34号室

に移動してもらえばいい


といった話です



満室なのに、新たな客を泊めることができる

→ 人の直感に反する = パラドックス ということです




では、無限の数の団体が来たならどうでしょうか?



自然数は、1、2、3、4、5・・・・と、無限個あります

奇数は、1、3、5、7、9・・・・と、無限個あります



自然数と奇数はどちらが多いでしょうか?


有限なグループで考えれば

もちろん自然数の方が、奇数よりも2倍多いですが


無限なグループで考えれば、数は一緒です



実数の場合、0と1の間を埋めるのに

100等分、1000等分、10000等分・・・・

とどこまでも間隔を狭めることができます


これに対して、整数の場合、間を埋めることができません


これが、実数の連続性であり

整数の離散性(とびひびの値を示す性格)です



そして、自然数も、奇数も

とびとびの間隔=濃度 が一緒なのです



濃度が一緒ということは

1つ1つの数字が「一対一対応」である ということです


なので、無限なグループで考えれば

自然数も、奇数も、数は一緒なのです



自然数の持つ濃度のことを「アレフ0」といいます



なお、≪無限個なら、どんな無限個も同じである≫

この従来の数学者の考えに対し


集合論を確立した

カントール(1845~1918・ドイツで活躍した数学者)は

「そうではない 無限にも濃度がある」と主張しました



要するに、無限にもレベルというかランクがある

といった考えです


アレフは、無限集合の濃度(あるいは大きさ)を示す単位です




では、実数の無限集合は、アレフ1なのでしょうか?


じつは、自然数の濃度(アレフ0)と

実数の濃度の間にも、中間の濃度があるのではないか?

という議論があり、確定されていないのです




また、自然数の濃度のことを指して「可算濃度」といい

その無限のことを「可算無限」といいます


「可算」というのは1つ、2つ、3つ・・・・という具合に

番号づけして数えられるという意味です




無限の数の団体が来たと言っても

1人、2人、3人・・・・

と数えることのできる自然数の濃度をもつ加算無限です



前述したとおり、無限で考えたとき

自然数の濃度と、奇数また偶数の濃度は一緒で

自然数と、奇数の数も一緒です



なので

無限の数の団体客がきたら

全ての宿泊客に、部屋番号×2の部屋に移ってもらえばよい


1号室 → 2号室   2号室 → 4号室

3号室 → 6号室   4号室 → 8号室

ということになります



こうして、奇数の数の無限個の部屋を空ければ

自然数の無限の客を泊めることができる ということです






まず、【満室】とは

≪部屋の数とお客の数が一緒≫

という以外にはありません



なので、最初の段階で【満室】を成立させるには

お客の数も無限である

という前提が成り立ちます



この段階では【満室】なので

新たな宿泊客は、止めることはできません



ところが【満室】から

客が1人来ようとようと、無限の数 来ようと

≪無限ホテル≫においては

無限に客室があるのだから、泊めることができる

という理屈なのです




これは、単に

≪無限≫という概念を主張しているだけなので

正しいも、間違えもありません




しかし、ならば

最初の段階で【満室】であるという前提が

おかしいです



客が、無限の数 来ようと

無限に客室があるのだから、泊めることができる

というなら

最初の段階で【満室】であるという前提は成立しません




つまり


① 最初の段階で【満室】であるという前提は

無限の客室は、無限の客で【満室】になる

ということです


客の無限 = 客室の無限

というのが、≪無限≫についての定義です



これに対し


② 客が、無限の数 来ようと

無限に客室があるのだから、泊めることができる

というのは


客の無限 ≠ 客室の無限

というのが、≪無限≫についての定義です



両者において、定義が違う

つまり、このパラドックスはパラドックスではなく

単にデタラメです




ちなみに

無限の数の団体客がきたら

奇数の数の無限個の部屋を空ければよい

というのはこういうことです


≪自然数で無限個の客室を

奇数で無限個の客室と、偶数で無限個の客室に分けました


3つの無限の「数」は一緒です≫



有限の世界ならば

自然数は、奇数、偶数に対して、それぞれ2倍多いです


無限の世界においては

自然数の無限個を

奇数の無限個と、偶数の無限個に

半分ずつ分けたのにもかかわらず


どの無限も濃度は一緒なので、数は一緒

ということです



この考え = ②の考え からいくと

無限の客室は、限りなく存在するので

たとえ無限の客が来ても、宿泊可能である

ということになります


なので決して【満室】にならないはずです




①の≪無限≫の定義からいくと

自然数の無限個の部屋は、全て埋まっているわけですから


奇数の無限個と、偶数の無限個に分けて

部屋の数が倍になったたところで、全ての部屋は埋まっているでしょ

という話になりますよ(笑)




つまり、≪無限≫といったって

定義によってどうにでもなる概念なので


〔 「概念」とは共通認識なので

むしろ「観念」(概念より主観を含む)と言った方がよいかもです 〕


定義 (数学的に言うと「公理」?) をちゃんしてから

論ずるべきなのに


≪無限ホテルのパラドックス≫は

「定義」が曖昧というかデタラメなのです





話を戻します


②の考えからいくと

無限の客室は、限りなく存在するので

たとえ無限の客が来ても、宿泊可能である

ということになります



しかし、【満室】なわけですから

最初から存在する部屋に (部屋を増やさずに)

どうやって新しい客を入れるのですか?

ということになります


→ 人の直感に反する = パラドックス




そうなると

ホントは、部屋を増やしていて


それを、≪無限≫という言葉で騙して

【もともとあった部屋】に錯覚させているのではないのか?


という疑問が、当然、湧いてきますよね



では、なにをもって


部屋を増やす操作をしているのにもかかわらず


(操作をしなければ、空き室がないので

新たな客を泊めることはできない)


≪もともと空き室が存在していた≫

と思い込ませているのでしょうか?




これについては

∞ + 1 = ∞ という理屈が考えられます



つまり、無限の部屋数は + 1 した ( = 1つ部屋を増やした)

ところで、無限の部屋数のままで、変化しない


だから、もともと存在した部屋 である ( = 部屋を増やしていない)

といっためちゃくちゃな論理です



めちゃくちゃといっても

【満室】だけど、無限ホテルだから【 空き室】はいくらでもある

という話と大差ないですよ(笑)


むしろマシなくらいです



この論理からいくと

≪無限ホテル≫は、【無限に部屋があるホテル】ではなく


ホントは、【部屋を増やす操作によって

後出しじゃんけんのように、限りなく (無限に)

新な部屋をつくることができるホテル】が正体ということになります




それはともかく、単純に考えると

このパラドックスは

有限世界においてどのような状況 (満室) にあろうと

無限は、有限とは別の原理のものである (もともと空き室がある)

といった主張なのではないでしょうか?



ところが、≪無限ホテル≫という無限世界において

【満室】である(有限) という間違えをしてしまった

ということだと思います







② 数学的に「正しい」のは?



知り合いの国立大学のアルゴリズムの教授に

≪無限ホテルのパラドックス≫を説明してもらいました



教授: ≪無限ホテルのパラドックス≫で

説明していることはすべて正しいです


緋山: それはどうしてなのですか?



教授: ≪無限ホテルのパラドックス≫で

説明していることを数学的に書くと


・ N = 自然数の集合 (1, 2, 3, ...)


・ X = 0以上の整数の集合 (0, 1, 2, 3, ...)

0 (新たに来た客)を加えた集合です


・ Y = -29以上の整数の集合 (-29, -28, -27, ...) 

N に -29 ~ 0 の30個の要素(30人の客)を加えています


・Z = 整数の集合(..., -3, -2, -1, 0, 1, 2, 3, ...)

とおくと


N⊂X⊂Y⊂Z であるが

|N|=|X|=|Y|=|Z| が成り立つことを言っています



ここで、N⊂X は N が X の真部分集合

( N ≠ X である部分集合)であることを表しています



また、|N| は

N の濃度(有限の集合の場合は要素の個数) を表しています



N, X, Y, Z が全て有限集合である場合には

このことは成立しません



要するに

≪無限ホテルのパラドックス≫は

自然数の集合、0以上の整数の集合

-30 以上の整数の集合

偶数の集合、奇数の集合は

全て濃度がアレフ・ゼロだと言っているに過ぎません





アレフ・ゼロについても説明しましょう


例えば、X = { リンゴ、ミカン、ブドウ } で

Y = { イヌ、ネコ、ネズミ } とおき


f (リンゴ) = ネコ

f (ミカン) = イヌ

f (ブドウ) = ネズミ

とおくと、f は一対一対応となります



X から Y への一対一対応があるとき

X の要素数と Y の要素数が等しいと定義します



次に、X を リンゴ、ミカン、ブドウではなく

X = { 1, 2, 3 } とおいてみます


同じように、X から Y への一対一対応が存在します


このとき、Y の要素数(濃度)を 3 と定義します



一般に、集合 Y に対して

X = { 1, 2, ..., n } とおいたときに

X から Y への一対一対応が存在するとき

|Y| = n と定義します


このように、n が定められるとき

Y を有限集合と呼びます




一方、このような n が定められない集合 Y を

無限集合と呼びます


N を(全ての)自然数の集合とします


N の濃度は自然数で表現することができないので

アレフ・ゼロと定義しています (アレフは無限を表す一種の記号)


N から集合 Y への一対一対応が存在するとき

Y の濃度もアレフ・ゼロと定義します





緋山: ① 最初の段階で【満室】であるという前提は

無限の客室は、無限の客で【満室】になる


客の無限 = 客室の無限



② 客が、無限の数 来ようと

無限に客室があるのだから、泊めることができる


客の無限 ≠ 客室の無限



②の考えからいくと

無限の客室は、限りなく存在するので

たとえ無限の客が来ても、宿泊可能である


決して【満室】にならない ということになりませんか?




教授: まず、≪無限ホテルのパラドックス≫は

【満室であるのにお客が泊められる】というパラドックスではなく


【無限に部屋がある】ことが

「有限」の世界では成立しないので

一般の人間には違和感を生じる それがこのパラドックスの正体です



緋山さんの考えは

まだ、有限のときの常識に頭が引きずられていると思います



その原因は

≪無限は数ではない≫

という認識が浅いことが原因だと思います



アレフ0の「無限」というのは

どんな数を持ってきても、それより大きい数が存在する

有限に抑えることができない という意味での無限です


(アレフ0の集合を対象とする数学を、離散数学という

簡単にいうと、整数をメインとして扱う数学のこと)



そもそも無限という数はないのです

「終わりがない」ことをそう呼んでいると考えた方が近いです



そこを理解して

これからする私の数学的な説明を聞ければ

「なんだそんなことか」というのが分かると思います




無限にいる人に1番から番号をつけます

無限にある部屋に1番から番号をつけます


i 番の人に i 番の部屋を利用してもらいます

( i = 1, 2, .. .)


これが最初の状況です



この時点で空いている部屋はないのです = 満室

(あるならば何番目の部屋か指摘できるはずです)



あとから無限の人がバスでやって来ました

彼らも1番から番号をつけます


宿泊している i 番の人は 2i 番の部屋に入ってもらいます

バスで来た i 番の人は 2i - 1 番の部屋に入ってもらいます


全員が別々の部屋に入り、全ての部屋に人がいるので満室です



無限は数では無いので、a + a = a みたいな変なことが起こります

( aは自然数の濃度を表していると思って下さい )



有限である10番の部屋だけで見てみると

最初は10番の人が入っていたのに


入れ替えたときには 5番の人が入っているので

5人を追い出した形になっているのですが


(番号的に) 後ろにいくらでも部屋があるので

吸収できるという訳です




緋山: なるほど・・・ そんな発想があったとは・・・・

これは、恐れ入り谷の鬼子母神 (恐れ入りました) です


≪無限ホテル≫とは

1人の客のときも満室、30人の客のときも満室

無限の客のときも満室  つねに満室の状況にある


イメージでいうと

【際限なく伸びることのできるホテル】ということですね!!



一般に正解かと思われている

② 無限の客室は、限りなく存在するので

たとえ無限の客が来ても、宿泊可能である = 満室にならない

よりも


むしろ

① 最初の段階で【満室】であるという前提は

無限の客室は、無限の客で【満室】になる → つねに満室になる

が正解だったのですね




教授:  無限の世界は

数に終わりがないことを悪用して

我々の直感に反するコト、常識に反するコトを成立させているだけ

と言えるのかもしれません


なので、私は無限の世界を扱うことを避けています 笑




緋山: 別次元のコトで、≪人間の直感に反する≫とか

≪人間の常識に反する≫とか 聞くと


【天才だけが理解できる】みたいな


言葉のもつバーチャルな世界に

引きずり込まれてしまいます(笑)



数学や物理学がこういうので商売しちゃダメですよね

宗教じゃないのだから・・・・



どんなにすごい話かと思ったら

一休さんのとんち話「この橋渡るべからず」

なんかとそんなに変わりません


ちなみに、とんち話も、常識に反するコトを言うことだけど(笑)





陽天さんは

≪無限大? そんなものは数学屋が勝手に考えた概念やで≫


≪無限大と0は、数学において大きな問題や

つまり、ここらが自然科学としての数学の限界と言える≫


≪しかし、わしら工学屋だけはごまかされん

ごまかしたら、モノが動かんし、モノが壊れる≫


≪数学屋は数にしか興味がない

それはそれでええ。数学は数を扱う学問やからな


しかし現代物理学ちゅうんは

そうした現代数学を悪用してできとることを

みなに早よ知らせんとあかんな≫


と言っています




教授も【 「実際にあるのか?」という質問は

数学では愚問で、モデルとして成立する(矛盾しない)

ならば存在すると考えるのが数学です



数学はあくまで数学の中という

閉じた世界で、理論を組み立てているので

物理とか、他のところで使えるかはどうでもいい話なのです 】

と述べています




また、ヒルベルト自身

【 数学は決められたルール

(公理と推論法則)に従って行われるゲームであり

ルールを取り替えることによってできる異なるゲームは

それぞれ同等である 】 と言っています 

(ウィキペディア「形式主義」)



つまり、大学から勉強する数学は

あるルールのもとになされるゲームにすぎす


ゲームに真理も虚偽もないのと一緒で

現代数学の数式が、現実世界の真理を表わしている

わけではないということです


現代数学の父がそう言っているのです!!




教授: ∞ + 1 = ∞

この式も厳密ではないのです


重要な点なので繰り返しますが

【∞は数ではない】からです


この式を認めるためには

∞という数を定義する必要があります


でも、そんな定義はありません




緋山: 増やす・減らす という概念が

すでに、無限という概念に、反するのかもしれませんね


なぜなら、無限から、プラスするマイナスする

というのは、≪無限から≫を

≪無限の数から≫ (= ある数から) というように

有限化してしまっているからです







③ 無限の乱用



緋山: 以前、フラクタルについて教授に聞いたとき

「無限」について触れましたね



フラクタルとは

図形全体(自分)の中に

相似な形(自分と同じ小さな形)を含む図形です





左の図形は、コッホ雪片と呼ばれています

コッホ曲線というフラクタルによってできています



フラクタルの中でもとくに有名なもの1つに

「コッホ曲線」があります 



コッホ曲線は、スウェーデンの数学者

ヘルゲ・フォン・コッホ(1870~1924)が考案したフラクタルです






線を三等分し、その真ん中の線を1辺とする

正三角形を作っていくことを繰り返します


この操作を無限に繰り返すとコッホ曲線になるとされます



無限に繰り返すと、もはや直線でできた図形としては複雑すぎる

ということで曲線というそうです



自然界における

コッホ曲線の近似として「海岸線」があげられています





フラクタルの発見は、イギリスの気象学者

ルイス・フライ・リチャードソン(1881~1953)だといいます



彼は、国境を接するスペインとポルトガルが

国境線について、それぞれ別の値を主張していたことから

国境線の長さは、用いる地図の縮尺によって

変化することを発見したといいます




これが、リチャードソンの示した

「海岸線のパラドックス」です



海岸線のパラドックスとは

海岸線の長さが、フラクタル的性質をもつため

1つに確定しないというものです


             


海岸線を測るとき、定規の長きが長いと

入り組んだ場所は測れません


正確に測るためには、短い定規を使う必要がありますが

短い定規でより正確に測ると、その分、海岸線の長さが長くなります


正確に測れば、測るほど、海岸線は長くなります





教授は、コッホ曲線の

≪操作を無限回数 繰り返すとコッホ曲線になる≫

ということについて、以下のように言っていましたね



【 教授: コッホ曲線の各線分___を _∧_ に置き換える操作を

無限回数行うと言いいますが、そもそも無限という数はないのです


「終わりがない」ことをそう呼んでいると考えた方が近いです



ですので、置き換え操作を無限回数行うと

長さが無限になると言っていますが


正しくは

≪置き換え操作をくり返し続ければ

長さも長くなり続ける≫というのが正しいです




海岸線が、コッホ曲線だとすると

与えられた長さまで測ると

後出しじゃんけんのように、新な長さが次々に

つくられていくという話になりますが


海岸線は別に自力でコッホ曲線の置き換え操作を

行っているわけではないので

どこかで、後出しじゃんけんができなくなります

くり返しに限りが来ます


無限にはなりえないのです




要するに、海岸線は操作回数が固定されたコッホ曲線です


長さを測定する側が

コッホ曲線に合わせた小さな定規を持ち込むことで

長さが確定してしまうはずです






緋山: 「無限にギザギザしている図形(フラクタル)は

自己相似なので

どんなに細かく分解して無限に ギザギザしている」

という話を


有名な数学・物理の教育系ユーチューバーのヨビノリさんが

動画でしていますが

これについてはどうですか?




教授: 実際に無限にギザギザしている図形なんて存在しませんよ


まあ、仮に電子や陽子とか

もっと細かい物理の最小単位のレベルで

フラクタルになっていると仮定してもいいですけど

結局そこで終わりって話です




フラクタルの長さについては

「操作を無限回 行う」というところに

怪しさが隠されていると思えます


無限の乱用があるように思えます 】





緋山: そこで、あらためてお聞きします


【 海岸線は別に自力でコッホ曲線の置き換え操作を

行っているわけではないので

どこかで、後出しじゃんけんができなくなります

くり返しに限りが来ます


無限にはなりえないのです 】というのは


置き換え操作を行っている人間が有限の存在だから

という意味ですか?



教授: わたしが、置き換えを無限に行えないと言ったのは

物理的な限界のためです


海岸線は、(一部の)人間が、勝手に

フラクタル(コッホ曲線)だ と言っているだけですが

コッホ曲線も同じです



置き換え規則を繰り返すと

線分が、限りなく小さく(短く)なります



こんな風に考えてみて下さい


野球ボールを並べて

1cm単位の折れ線を作ることができますか?


もちろん答えは NO ですよね



置き換え操作を繰り返すと

線分の長さが 1cmどころか

1mm, 1μm, ... といくらでも小さくなっていきます



それを野球ボールで構成することは不可能です


野球ボールを原子に置き換えても一緒です

ならば、表せる線分の長さにどこかで限界がやってくるのです



価値論 【 数学・物理学 編 】

フラクタルの理論について ① ②






おまけ

海岸線のパラドックス




海岸線のパラドックスについておさらいします



【 ある島の海岸線を、長さ1kmの定規で測ったところ

定規が5本分の長さでした

なので、海岸線の長さは 1km×5=5km です


ただ、定規が長かったので

海岸が入り組んでいる場所は測れませんでした



もう少し正確に測るために、0.5km の定規を使ってみました

すると、海岸線の長さは定規16本分

0.5km×16=8km となりました


1kmの定規で測ったときより、海岸線が3km 長くなりました



さらに定規の長さを短くして測ると、海岸線はさらに長くなりました


地図を拡大していくと、見えていなかった細かいデコボコが見えてきます

それをもっと短い定規で、正確に測ると、さらに海岸線は長くなりました



いくらでも拡大していくことができるので

海岸線は、果てしなく伸びていき、長さは、無限大になってしまう 】





教授の解答を記します



単なるパラドックスの話なので

真面目に考えない方がいいですよ

と言いたいところですが、笑


スッキリしないと思うので

何がおかしいのかをお話ししておきます



海岸線を長い定規で測るとします

定規は直線ですが、海岸線は曲線です


ですので、曲線を無視して定規で測ると

実際の距離より短くなります



では、定規の長さを短くします

先ほどよりは小回りが利くので

測定結果は実際の曲線に長さに近づき

長くなります



さらに定規の長さを短くします

さらに小回りが利くので

さらに測定結果は先ほどより長くなります



海岸線はどこまで細かく見ても曲線なので

定規の長さを短くし続ければ

測定結果は長くなり続ける


測定結果が長くなり続けるということは

海岸線の長さは無限ではないか?


と言うのが「海岸線のパラドックス」の主張です




このパラドックスは

測れないから無限大と言っているわけではなくて

定規の長さを短くすれば測定結果が長くなるから

定規の長さを(0にならないようにして)

永遠に短くし続ければ

測定結果も永遠に長くなり続ける=長さは無限である

という主張です




このパラドックスの誤りは

測定結果も永遠に長くなり続ける=長さは無限である

にあります


# そもそも、定規の長さを永遠に短くし続けなければならない

海岸が存在するのかという話もありますが 笑




先ほどの例ですが

最初は5km、次は3km 長くなっわけですが

定規を短くするのが n 回目のときに

長さが前回測定結果より 5× 0.6^n だけ増えるとします


0.6^n とは 0.6 の n 乗

すなわち、0.6 を n 回かけた数です


要するに、最初は 5km で

次に 5×0.6=3km 長くなって

その次は 3×0.6=1.8km 長くなって

さらに 1.8×0.6=1.08km 長くなり

1.08×0.6=0.648km 長くなり…

と永遠に繰り返したとします



これを繰り返すと

確かに永遠に測定結果は長くなり続けるのですが

無限に続けても

5÷(1-0.6)=12.5km にしかならないことが

計算できます


要するに 5×(1+0.6+0.6^2+0.6^3+ …)=12.5

となります


つまり、無限に足し続けたからといって

足した結果が無限になるとは限らないのです


それが今回のパラドックスの正体です


# アキレスと亀のパラドックス と本質的に変わらないのです





【 5÷(1-0.6)=12.5km について


最初の長さが 5km


次に、長さが 5×0.6km=3km 増える


次に、5+3=8km から

長さが 5×0.6^2=1.8km 増える


次に、8+1.8=9.8km から

長さが 5×0.6^3=1.08km 増える・・・・


とします



5km から (n-1)回まで長さが増えたときの合計の長さをLnとします

Ln=5+(5×0.6)+(5×0.6^2 )+ … +(5×0.6^{n-1})



これは、初項 a=5、 公比 r=0.6 の等比数列の和になっています

この式の和は簡単に求められ、公式にもなっていますが

ちゃんと求め方を書いておきます



Lnを 0.6倍すると

0.6×Ln=(5×0.6)+(5×0.6^2)+ … + (5×0.6^{n-1})+(5×0.6^n)

となります



0.6^n とは 0.6 の n 乗

すなわち、0.6 を n 回かけた数です

 
5を0.6倍すると、(5×0.6)

(5×0.6)を0.6倍すると、(5×0.6^2)

(5×0.6^{n-1})を0.6倍すると、(5×0.6^n)

となります



Lnから 0.6×Lnを引くと

Ln= 5+(5×0.6)+(5×0.6^2)+ … +(5×0.6^{n-1})

0.6×Ln=(5×0.6)+(5×0.6^2)+ … +(5×0.6^{n-1})+(5×0.6^n)


共通の部分がなくなって

Ln-(0.6×Ln)は、5-(5×0.6^n) となります

つまり、Ln-(0.6×Ln)=5-(5×0.6^n) です



左辺をLn でくくると (1-0.6)×Ln になります

右辺を5 でくくると 5×(1-0.6^n) になるので


(1-0.6)×Ln=5×(1-0.6^n)

さらに、Ln=5×(1-0.6^n)÷(1-0.6)

となります



これでn を大きくしていくと 0.6^n は、0に近づきます


0.6×0.6=0.36  0.36×0.6=0.216

0.216×0.6= ・・・・

これを繰り返すと 0 に近づくのがわかると思います



n が無限のとき、0.6^n=0 なので

n が無限ならば

Ln=5×(1-0.6^n)÷(1-0.6) は

Ln=5×(1-0)÷(1-0.6)

Ln=5×(1)÷×(0.4)=25/2=12.5 になるわけです 】




スミスさんの子供(2人の子供の性別問題)




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1/3×3 = 1 のはずなのに
0.3333…×3 = 0.9999… のパラドックス
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