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【 緋山酔恭の山水石美術館
酔恭・竜太のB級哲学仙境録
幸福論 価値論 心と存在
言葉と世界 (食べて食べられガラガラポン を含む)
時間論(相対性理論・ローレンツ変換崩壊)
の7つのサイトを運営しています 】
サイト運営者
緋山 酔恭 ( 緋山酔恭の山水石美術館 ネット美術館運営 )
当サイトは
単なる事実の記述や科学的な論述にすぎず
内容的には、石のサイトは美術と文化
他は、科学、哲学など学術的なものであり
それ以上でもそれ以下でもありません
アインシュタインが
特殊相対性理論を発表したのが1905年
一般相対性理論を発表したのが1915年
以後100年以上にわたって
物理における目立ったというか
理論としてそれなりに整った「時間」についての考えは
≪ループ量子重力理論≫おける「時間論」と
≪ブロック宇宙論≫における「時間論」しかありません
ループ量子重力理論
ループ量子重力理論とは
空間量子(空間原子)という分割不可能な最小単位が存在し
空間量子が、空間を生み出している
という考えが基礎にあります
空間に、空間量子がつまっているというのではなく
空間自体を、空間量子という物質がつくっているという考えです
一般相対性理論と、量子論との融合を試みたのが
「量子重力理論」であり
「量子重力理論」というのは、山ほどあるそうです
その中の圧倒的に流行っているのが
超弦理論(ちょうげんりろん・超ひも理論)です
超弦理論が99% 残り合わせて1% なんていう話もあります
そんな少数派の中では
М理論(ブレーン宇宙論・膜宇宙論)
ホログラフィック理論、ループ量子重力理論 が人気があるようです
ループ量子重力理論というのは
「空間」も、物質と同じように、原子(量子)によってできている
物質と空間は同じ原理でできている
というものです
この理論においては
≪空間において、物質やエネルギーが移動したり
重力波(重力によるさざ波・時空を伝わる)がくると
空間の形が変化する
そこに、時間が発生する≫と考えます
しかしこれはデタラメですよ!!
なぜなら、ループ量子重力理論においても
時間とは、動きや変化である ということを前提として
理論を展開していることは明らかであり
ならば、物質やエネルギーの移動そのものに
すでに「時間」であるからです
ブロック宇宙論
ブロック宇宙論というのは
ループ量子重力理論以上に、デタラメというか
オカルトじみたなものです
ブロック宇宙論も、相対性理論をもとに
組み立てられたものだそうです
我々一般の時間の感覚は
「今」「現在」に特権的な地位を与え
過去は過ぎ去ってないもの(あるいは記憶)であり
未来は可能性であると考えますが
「ブロック宇宙論」というのは
過去、現在、未来 全ての時間を、同列に考えます
そして、四次元時空(ブロック宇宙)のどこかに
過去、現在、未来の出来事が実在していると考えるわけです
「ブロック宇宙論」では
恐竜も、織田信長も、西郷隆盛も実在として存在しているし
未来の出来事も実在として
すでに時空のどこかにあるのです
そこには
「時間の流れ」はなく
ブロック(塊)のどこかを切っても
ある出来事があるだけだというのです
ブロック宇宙の世界では
時間に向きがないので
現在、過去、未来の区別もない
時間は実在しない
あるいは
時間は実在するが、時間の流れは存在しない
といった主張がなされています
アメリカの理論物理学者
ブライアン・グリーン(1963~)は
【 変化という概念は
時間のある一瞬については何の意味もない 】
【 変化は、時間の経過のなかで起こり、時間の経過を意味する
しかし、いったいどんな時間概念ならば
経過することが可能なのだろうか?
当然ながら、瞬間には時間の経過は含まれない
なぜなら、瞬間とは時間の素材であり
ただそこに存在するだけで変化しないからである 】
【 ある場所が空間のなかで移動すれば
別の場所になるだけのことだし
時間のなかである瞬間を移動したとすれば
別の瞬間になるだけのことだろう 】
【 時間は流れていく川というよりもむしろ
永遠に凍りついたまま今ある場所に存在し続ける
大きな氷の塊に似ている 】
と述べています
ブロック宇宙論のデタラメさは
彼らの言葉が、明示していますよ
「ある場所が空間のなかで移動すれば
別の場所になるだけのことだし
時間のなかである瞬間を移動したとすれば、別の瞬間になるだけ」
「移動」そのものが、≪変化≫であり
≪時間≫そのものじゃないですかバカバカしい(笑)
「我々は時間の経過を観測しているわけではない
実際に観測しているのは、この状態が
記憶に留めている以前の状態とは異なるということにすぎない」
「この状態」(現在) 「以前の状態」(過去)が
≪時間≫の概念じゃないですか(笑)
詭弁を弄して
一般人を惑わせるのもいいかげんにせいよ
という程度の理論だということです
彼らだって、本心では
「時間は流れるものである」
と思っているはずですよ(笑)
学者として注目を集めたいがために
もっと言うと、飯を食べていくために
インパクトのあることを語っているだけでしょ
という話なのです(笑)
≪時間が流れるという感覚は
人間が作り出した概念であり、時間は存在しない≫
そうではなく
モノやコトの変化や動き
すなわちモノやコトが流れるという感覚を
人間が「時間」という概念で、定義したのです
話が、まるっきり逆さまです
ブロック宇宙論というのは
相対性理論の
「時空」(時間と空間が一緒)という概念から
時間を空間のように考えるわけです
空間ならば物体が移動できます
そこで、我々がコンビニに買い物に行くように
ブロック宇宙を、動き回ることが可能になれば
タイムトラベルもできる
なんて話になっているのです
マクタガートの時間論
「ブロック宇宙論」は
時間の非実在性を説いたことで知られている
マクタガート(1866~1925・イギリスの哲学者)の
C系列の考えを発展させたものと言えます
彼によると、時間についての表現は2つあるといいます
そしてそのどちらにおいても時間は、実在しないといいます
A、過去、現在、未来といった表現
この系列上の出来事は、異なる時点において
過去でもあり、現在でもあり、未来でもある
例えば、ある出来事が、現在の12時30分におきているとしても
10時30分という時点からすれば未来だし
15時30分という時点からすれば過去となる
→ なので時間は実在しない
また、ある出来事が
過去、現在、未来といった
3つの互いに排除しあう特性を持つので矛盾する
→ 時間は実在しない
B、ある時点より前、より後といった表現
B系列は「向き」をもつ点で時間的といえますが
マクタガートによると
時間は必然的に変化を伴うのに
より先、より後というのでは、変化がない
例えば、2010年は、つねに2000年より後である
なので、実在性がない
なお、マクタガートによると
B系列だけでは時間が存在するためには不十分
A系列が、真の時間であるといいます
マクタガートの間違えをいうと
≪言葉というものは物差しで測るように
モノゴトをきっちり表現することも分けることができない≫
ということを知らない
というのがそもそもの間違えです
マクタガートの「時間は実在しない」なんていう論理は
こっけいなのですが
ただ、マクタガートの時間論には
これはそもそも「時間ではない」とした
C系列があります
この話がおもしろく、ブロック宇宙の根源がみられるのです
C系列とは「順序」です
「順序」には、変化がないので
時間ではないといいます
あ・い・う・え・お といった順序は
い・え・う・お・あ などとといった
他の組み合わせのいずれでもないですが
変化することを示していないので
時間ではないというわけです
また、C系列は永久に固定されていて
そこに「変化」を入れても
B系列にならない
なぜなら、Bは、先(あ)→後(お)
という時間ですが
Cに変化を入れても
Cは、時間の向きを考慮しないので
あ→い→う→え→お
お→え→う→い→あ
のどちらかに流れることになるといいます
哲学における時間論
『時間は哲学の領域である』なんて語られたりもしますが
哲学においても目ぼしいものはそうはありません
古代ギリシアの自然哲学者 ゼノン(前490~前430頃・)は
「飛ぶ矢」と「アキレウスと亀」を含めた4つのパラドックスから
時間と空間は
無限分割が可能である→
無限分割が可能であるなら
運動の完遂は不可能なはずである→
なのに運動は完遂できる→
時間と空間は実在しない→
時間と空間によって構成されている
現象世界も存在しない
というように
運動の完遂は不可能なはずであるという観点から
時間と空間の実在性を否定しています
これ以後、現在に至るまで
有名なものはたった4つしかありません
1、空間と時間は、外界にはなく
人間の認識能力として存在するという
イマヌエル・カント(1724~1804・ドイツの哲学者)の考え
時間と空間は、認識の初期段階において
イメージ(表象)を作り出す「感性」の形式として存在する
というもの
2、≪真の時間とは切断することのできない
「持続」であり、固有の実在である≫ という
アンリ・ベルクソン(1859~1941・
フランスの哲学者。ノーベル文学賞受賞)の考え
3、時間の実在を否定した マクタガート
(1866~1925・イギリスの哲学者)の考え
4、「世界五分前仮説」を立てて、過去と未来の実在性を否定した
バートランド・ラッセル(1872~1970・
イギリスの哲学者・数学者。伯爵。ノーベル文学賞受賞)の考え
以上の4つのなかで、まがい成りにも
体系的また論理的に語られているのは
マクタガートとベルクソンの考えだけであると言えます
つまり、紀元前のゼノンのパラドックス以後
めぼしい時間論は2つしかないのです
なお、ウィトゲンシュタイン(言語哲学者)とともに
20世紀最大の哲学者と称される
ハイデガー(1899~1976)の著した「存在と時間」があります
但し、これは、純粋に、時間とは何か? を論じた
いわゆる「時間論」ではありません
彼の興味は、あくまで「存在」で
そこに時間がどのように関係しているのかを語り
人間の生きるべきあり方を述べています
ベルクソンの時間論
アンリ・ベルクソン〔1859~1941・
フランスの哲学者。ノーベル文学賞受賞〕は
時間の連続性と、実在性を主張した人物です
≪真の時間とは切断することのできない
「持続」であり、固有の実在である≫ と述べています
ただ、彼は、神秘主義の思想家、スピリチュアリスト
としても有名で、彼の哲学は、≪神学≫に近いです
ちなみに「神秘主義」とは
「神」とか「宇宙の根本原理」とかいった
究極的な存在との合一を説く立場です
ベルクソンの思想をまとめるとだいたいこんな感じです
≪ 宇宙は「生成の大洋」にして「創造的進化力」に満ちている
「創造的進化力」の本質は
「物質のなかに不確定性を挿入する」ことにより
生命を進化させることにある
生命の本質は「宇宙のエネルギーを蓄積し
それを変形可能な経路に放流しようとする一つの努力」である
この「創造的進化」をもたらす
宇宙の「生の躍動・生の活力」(エラン・ビィタール)は
つねに噴出し続けているはずである
地球上の諸生命体は、その噴出力が
物質によって限定されて、生み出されたものにすぎない ≫
≪ この「大いなる創造力の流れ」は
地球上では、物質の強い抵抗を受けて
「種」という地点で進化を停止せざるを得なかった
「大いなる創造力の流れ」の中断から知性と物質が生まれた
生命の本質は宇宙の場所が変わっても同じである
ゆえに地球上の生命は
物質という固いものに制限せざるを得なかったが
他の惑星ではもっと進化が進んででいるかもしれない
「種」の誕生は、見かけの華々しさとは違い
「創造的進化力」の停止を意味する
地球上の生命は、物質の抵抗により「生命の本質」を隠している ≫
≪ 知性の本質は製作することであり
「存在」を全体から切断し、固体としての事物に置き換えることである
このとき「生命」や「運動」が取り除ぞかれる
知性は「生の躍動」の一所産にすぎず
「生」全体を解明することはできない
「存在そのものの」へ働きかける「直観」こそが重要である
「本能」は内から直に事物に働きかけるのに対し
「知性」は外から物と物との関係を知ろうとする
「直観」は「存在そのものの」の内奥へと導くものであり
第3の認識方法である
人間のみが創造力を持つが
それは個々の生命体と共感する「芸術家的直観」にとどまっている
物質の限定を超えて「創造的進化力」に合一するには至っていない
「形而上学的直観」には「超人的な認識力」が不可欠である ≫
≪ 宗教には「静的宗教」と、「動的宗教」がある
静的宗教においては、死はまぬがれないものと悟り
(知性の働きにより)
生命の飛躍を弱め、時には生命を絶つにことさえなされる
知性に根ざした「静的宗教」は古代においては
精霊信仰や多神教などとして存在した
これに対して「動的宗教」とは
生の飛躍によるものであり
直観の深化によるものであって、神秘主義がそれにあたる
しかし、ギリシア正教会の神秘主義では
ギリシア伝統の主知主義(知性・理性を意志や感情よりも重視する立場)
がじゃまして完全な神秘主義に至らなかった
一方、インドの神秘主義では、苛酷な自然環境により
エラン(直観)が停止し、生存意欲の滅却や
生からの逃避などが問題となり
やはり完全な神秘主義には至らなかった
ギリシアでは知性主義、インドでは物質的環境により
エランが不足したのである
完全な神秘主義を成し遂げた人たちは
スペインのカルメル会(カトリック修道会)の聖者にみられる
忘我(脱我)を通して神と合一しても長続きはしない
それは観照(主観をまじえないでものごとの本質を見極めること)
にとどまっていたからである
忘我となり、神のうちへ入るが
それでもまだ、魂(意志)の一部が外に残っている
大神秘家の魂はここで、不安を覚える
完全な神秘主義の特徴は、忘我(脱我)のあとのこの不安で
不安が募り、魂全体を覆うと(闇き夜)、忘我は消える
すると魂は大きなものを失ったと感じる(魂の死)
ところが、暗き闇の夜から蘇ったとき、魂のうちには神があり
完全な神との合一がなされている ≫
そして、時間については
≪ これまで「時間」と言われてきたものは
分割できないはずのものを空間的なものによって
分節化して生じたものである
時計や暦によって理解している時間
数に還元され量的・等質的な長さ・大きさに帰着する時間は
生活の便宜からつくられた虚構であり
真の時間とは
切断することのできない「持続」であり
固有の実在である
このような時間を内的体験により「直観」し
真の時間を全人格的において把握するとき
自由・充足感を得るが、それはすでに「絶対者との接触」である
自由とは「超知性的直観力」により
「愛の活力」(エラン・ダムール)としての「神」と合体を果たすことによって
過去・現在・未来という「時間的総合」(サンテーズ)としての
自我を獲得することである ≫
といったところです
新興宗教の教義のような話です(笑)
以上の歴史的な「時間論」に比しても
陽天と緋山の「時間論」は
≪人類初≫と銘打って、決して恥じない考察をなしたものである
と自負しております
私のサイトは、自己紹介文に記載したとおり
あくまで趣味の学術、哲学、美術、文化のサイトです
考えを伝えるための自費による電子書籍の出版はしていますが
それ以外は、アフリエイト等の広告収入を含めた
一切の営利活動はしていません
それと、石のサイトに関しては
たけしさんの番組「たけしのニッポンのミカタ」より
以下のような取材要請があったこともあります
【 突然のご連絡大変に失礼致します。
テレビ東京「たけしのニッポンのミカタ」を制作しております
★★★★★★の★★と申します。
夜分遅くに大変申し訳ございません。
番組の企画書を添付させて頂きます。
今回テーマを「ハンター」とさせて頂いております。
企画の段階でございますが、
菊花石のお話を伺うことはできますでしょうか。
急なご相談でお忙しいところ大変に申し訳ございませんが
水曜日にお返事頂けると幸いです。
何卒宜しくお願い致します。 】
しかし、当方、多忙なことと
メディア関係が苦手のこと
まだまだ勉強不足であること
などから
ご遠慮されていただいております
但し、サイトの記事については
基本、事実の記述や科学的な論述であって
思想、感情にもとづいたものではないので
そもそも著作権はありません
自由に、引用、転載、および論評できます
哲学は、思想、感情部分を含みますが
基本、学術論です
当方Webサイトに関しては、自由に利用してください
( あたりまえのことですが
学術に関する論評が自由にできない世の中は
洗脳、無知の恐ろしい社会であって
科学の発展さえをも否定することになります )
写真については、著作物ではありますが
報道、批評、研究などのための「正当な範囲内」である場合
ルールを守れば(提供元の記述等)、利用可能とされています
写真というものは、撮影者の意図によって構図が決められ
シャッターチャンスをとらえてなされるものですから
創作性があり、著作物性があると認められるのが普通のようですが
石の写真も山の写真も、芸術的に創作したものでなく
単なる資料あるいは記録物ですので
自由に使用してください
なお、山に関しては日本二百名山のうち150くらいは登っています
日本三百名山に入っていない山も含めると400も500も登っています
高校生時代は「旅」に明け暮れました
春、夏、冬の休みには、野宿したり列車の中で寝たりしつつ
列車とバスを利用して日本中の観光地を巡りました
そんなことから、山登りに移行してからも
「景色」に異常に執着してしまうのです
ピークを制覇して喜びに浸るという
ピークハンター的登山もあっていいし
そういう登山をしている人が多いですが
私は頂上に立っても、霧やガスなんかで景色がみれないと
悔しくてたまんないって感じになるのです
私の山登りは、基本全てが「闇登山」です
夜中に登ります
夏なら5時半くらいには頂上に立てるように登山するのです
夏だと8時すぎにはガスが出て
展望が得られないなんてことはあたりまえにあります
雲一つない完全な晴れでも
よほど高気圧が強いとかでない限り
夏なら10時くらいにはガスは出できます
だから「100名山を登った」という人でも
ふつう半分以上は展望を得ていないわけです
私のように
「100名山全てで展望を得たい」なんてことをするなら
そこまでしないとムリです
それに7時くらいまでは光線状態がいいので、いい写真が撮れるのです
東京から、南会津あたりの山までは日帰りしていました
高速道路飛ばして4時間、高速降りてから登山口まで1時間
〔登山口がわからず周辺で1時間くらいうろつき回ることも多い〕
登山口から山頂まで4時間かかるとなると
仕事(しかも肉体労働をしていた)を夜の7時に終えて
9時には出発しなきゃなりません
登山口に夜中の2時頃着いたら
30分ほど仮眠して、登山なんてのもザラでした
そうすると、山頂に6時半には着く
急いで降りてくると朝の10時頃には下に着きます
秋とか初冬だと午後になっても山がガスらないことがあります
そしたらまたここまで来るのには
お金的にもエネルギー的にも大変なので
3時間くらいで登れる別の山をやりにゆくわけです(笑)
車でその山の登山口まで2時間かかるとしても
昼の12時から登山できます
そうすれば、ゆっくり登ったとしても
夕方の3時半には山頂に立てます
つまり日が暮れる前に山頂に立てます
そうすれば写真が撮れます
あとは、懐中電灯で降りてくればいいわけです(笑)
家につくのは夜中ですが
もちろん次の日、早朝から仕事でした
夏の富士山は、多くの人が夜に登りますよね
五合目まで車で行けるから
そこから登って、頂上で御来光を見るのです
富士吉田の街から
懐中電灯の明かりがつらなるのが見えるくらいです
また、日本アルプスなんかでは
頂上から1時間くらい下の山小屋に泊まって
御来光を見に日の出前から山頂を目指す
ということもよく行われています
だけど、私のようにほとんど全部
下から闇登山している人っていないんじゃないですか?
少なくともいまだ知らないですよ(笑)
そんなことをやって400も500も登ってきたから
「こんなにすごい光景を自分一人が見てていいの!」
「これって神様のプレゼント?」
なんて思えるような体験がいっぱいあります
そんな経験の中で一番感じているのは
≪一度失敗して思い入れがとても強くなった山≫とか
≪とても苦しんで登った山≫とか
≪2度とこられないような山≫とかは
たいてい展望を得ることができるということです
また「今日は雨の中これだけ苦労して登ってきたのだから
明日も雨っぽい予報だけど、晴れるんじゃないかな?」
という予感のようなものがあったりすると
本当に翌日、そのとおりになるような経験も何度かしています
そういった経験を人に話すと
「あれだけ山に登っていれば不思議なことだってあるよ」
って言われますが
自分の感覚としては
“全部単なる偶然”では説明がつかないのです
思い入れの強い山が晴れるというのは
≪祈りは叶う≫ということなのかな?
という質問には
分かりません
ホントに単なる偶然かもしれないですし・・・
ただ「祈り」というのは
行動の中にすでに存在していると思います
頂上に美しい景色があるはずだと、まず信じ
登るまでには、仕事のことをすませ
高速道路を何時間もかけて車を走らせる
そして夜中、山の中だから誰にも聞くわけにいかず
登山口をさんざんと探し回り、それからほとんど寝ずの状態で登る
このように頂上に立つまでには
すでにたくさんの祈りが、行為の中に存在しているのです
宗教のように何かを拝んだりして願いが叶うというよりは
努力によって叶う面の方が、私の実感としては強いです
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日本100名山 南アルプス 塩見岳より見る 100名山 荒川岳
荒川岳は荒川三山といい、左に最高峰の悪沢岳(東岳)、右に荒川中岳と前岳 |
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