パラドックスと「モンティ・ホール問題」


パラドックスと
モンティ・ホール問題









嘘つきのパラドックス



パラドックスとは、逆説や矛盾が生じてしまう主張のことです



パラドックスの最も基本的なものとして


古代ギリシアの哲学者

エウブリデス(紀元前4世紀頃・アリストテレスと同時代の人)

が作ったとされる「嘘つきのパラドックス」(自己言及のパラドックス)

が知られています



ある男が「私が今言っていることは嘘だ」と言った


この言葉が「真」なら、彼は嘘をついていることになる

この言葉が「偽」なら、彼は本当のことを言っていることになる


したがって、男が嘘をついているなら彼は真実を述べている

男が本当のこと言っているなら彼は嘘を言っている

という逆説です






嘘つき天使のパラドックス



天国の道へのパラドックスなどともいいます

死者となったあなたが、天国と地獄との分岐点にやってきました


そこに2人の天使が現れます


一方は、必ず正直な答えを言う 正直天使で

もう一方は、必ず嘘の答えを言う 嘘つき天使です


正直天使、嘘つき天使、ともに天国に住んでいて、外見はそっくりです


あなたはどちらか一方の天使だけに一回だけ質問ができます


天国に行く道を聞き出すにはなんと聞けばいいのでしょうか?


両者は外見はそっくりで正直か嘘つきか見分けがつかないので

両者の答えが一致する質問をしなければなりません




A、正直天使


質問① あなたは正直天使ですか?


「はい」と答える



質問② あなたは正直天使ですか?と聞いたら「はい」と答えますか?


「はい」と答える





B、嘘つき天使


質問① あなたは正直天使ですか?


「いいえ」と答えると正直に答えたことになるので「はい」と答える



質問② あなたは正直天使ですか?と聞いたら「はい」と答えますか?


「はい」と答えたら正直に答えたことになるので

「いいえ」と答える




嘘つき天使では、①に対して②の答えは反転します


本来の質問である質問①に対する答えが正しいならば

②において「はい」


本来の質問である質問①に対する答えが間違えならば

②において「いいえ」


が返ってくることになります





そこで、質問②を

天使さんは、こっちが天国への道ですか?と聞いたら「はい」と答えますか?

に置き換えます



正直天使の場合

質問が正しければ「はい」  間違えなら「いいえ」 です



嘘つき天使の場合

・ 質問が正しければ「はい」

(本来の質問①の答えである「いいえ」が反転して「はい」になる)


・ 質問が間違えならば「いいえ」

(本来の質問①の答えである「はい」が反転して「いいえ」になる)



すると、どちらの天使の答えも一緒になるので

どちらか一方の天使(見分けがつかない)への一回の質問で

天国への道を知ることができます





この「嘘つき天使のパラドックス」は

「正直村・嘘つき村のパラドックス」を発展させたものです


こちらのパラドックスでも

正直村と嘘つき村の2人は外見がそっくりで

どちらか一方の住人だけに一回だけ質問ができます



但し、嘘つき天使のパラドックスとは、決定的に違うところがあります


「嘘つき天使のパラドックス」の場合

正直天使と嘘つき天使がともに天国に住んでいるのに対し


「正直村のパラドックス」の場合

正直者は正直村に、嘘つきは嘘つき村に住んでいるという点です



なので「あなたのすんでる村はこっちですか?」という質問をしてやります



すると正直村の人、嘘つき村の人が

ともに「はい」と答える方が、正直村への道であり

ともに「いいえ」と答えるのが、嘘つき村への道ということになります







帰納法のパラドックス



それから「帰納法のパラドックス」というのがあります


帰納法とは、A社製のテレビが壊れた

デジカメが壊れた パソコンが壊れた

だから「A社製は全て壊れやすい」

というような結論のみちびき方をいいます


これに対し演繹(えんえき)法は、前提を認めるなら

結論もまた必然的に認めざるを得ないという推理方式です


A社の製品は全て壊れやすい

だから「A社製のプリンタは壊れやすい」というのが演繹法です




Aという豚は、Bという人から毎日餌をもらって、餌を食べるたびに

「Bさんは人間たちの中で最も親切な人だ」と信じるようになる


経験に基づく帰納法的な思考とは、こういうもので

餌を食べる回数が増えるほど、つまり経験値が増していくほど

確信が深まっていき、安心の最大値が


悲劇の最大値を示すというパラドックス(逆説)です


経験したからと

胸を張っている人の間違えを指摘したパラドックスでもあり

未来の予測は不可能であることを示すパラドックスでもあります




心そのものは見えないけど、心は行為にあらわれます

ジュースを飲みたいという心理があってジュースを飲むというように・・・


そこで人の全ての行為には意味があると考え

そこから心というものを知ろうとしたのが心理学です



ただ、人の心って

すべて行為や行動にあらわれるのでしょうか?


結婚する前は、優しかった人が

結婚したらとたんに、いちいち束縛してきて

暴力までふるうようになったなんてことはよくあります


これも帰納法的な思考からの失敗です







ラッセルのパラドックス



バーランド・ラッセル〔1872~1970・イギリスの論理学者

数学者、哲学者。ノーベル文学賞を受賞〕

の「ラッセルのパラドックス」(床屋のパラドックス)

もなかなか面白いです



ある村に、自分でひげを剃らない人全員の

ひげを剃る床屋がいました


そうすると、この床屋自身のひげは誰が剃るのでしょうか


もし、床屋が自分のひげを自分で剃るとすれば

この床屋は、自分でひげを剃らない人の

ひげを剃るのだから矛盾する


そこで、床屋が自分のひげは剃らないとすると

この床屋は自分自身のひげを剃らない人全員の

ひげを剃ってやるのだから

これも矛盾する


どちらにしても矛盾してしまう





「床屋のパラドックス」は

「ラッセルのパラドックス」を分かり易く説明したものです


ラッセルのパラドックスは

数学の集合論に関してのパラドックスです



集合には

赤くないものの集合(A)のように

「自分(集合)自身をその要素として含む集合」

(集合自身は赤いものではない)と


赤いものの集合(B)のように

「自分(集合)自身をその要素として含まない集合」

があり


集合の集合であるCをどちらに含めても

矛盾が生じるというのがラッセルのパラドックスです



例えば

世界のあらゆる図書を

あらすじからAのグループに入る図書と

Bのグループに入る図書に分けた


グループAは自分(その本自身)について書かれている本

グループBは自分について書かれていない本である


Bの目録として、新たにTという本が作られた


Tは図書だから、AかBのいずれかに属するはずである


Tは目録なので自分について書かれていない

なのでAには属さない



そこで、TはB(自分について書かれていないグループ)に

属すると仮定する



すると、Tは、グループBに属するとともに

グループBの目録ということになる


ならば、Tは、T(自分)について書かれている本になる


グループBは、自分について書かれていないグループなので

ここに矛盾が生じる


したがって「現存する全ての図書について

記載した図書目録は存在しない」ことになる







アキレスと亀のパラドックス



古代ギリシアの自然哲学者 ゼノン

〔前490~前430頃・政治活動をして捕らえられ処刑されたという

ストア派のゼノンとは別人〕の

「アキレスと亀のパラドックス」は

いちばん知られているパラドックスでしょう



アキレス(ギリシア神話に登場する英雄)

と亀が競争しました



アキレスにはハンデを負わせ

亀のスタートするA地点より

後ろのB地点からスタートさせました



1人と1匹は同時にスタートします

アキレスの速度を亀の2倍とします

AからBの距離を1とします



するとアキレスがAに到着したときには

亀はそこから1/2進んでいる


次にアキレスが亀のいた1/2地点に到着すると

亀はアキレスより1/4進んでいる



アキレスが1/4地点に着くと、亀はそこから1/8先にいる…


こうしてアキレスは永遠に亀に追いつくことができない


といったものです




じつは、亀が与えられたハンデの距離が1で

アキレスの速度が亀の2倍だから

亀が1進んだらアキレスは追いつくことができます



だけど、亀の進む距離が

1/2+1/4+1/8+1/16+1/32+1/64+1/128…なので

この計算方式だと1になることはないわけです



【 亀の進む距離… 1/2(2/4)+1/4=3/4  3/4(6/8)+1/8=7/8

  7/8(14/16)+1/16=15/16  15/16(30/32)+1/32=31/32

  31/32(62/64)+1/64=63/64

  63/64(126/128)+1/128=127/128

  127/128(254/256)+1/256=255/256 】







類似のものに

ゼノンの「二分割」というパラドックスがあります



太郎くんが

スタート地点から

ゴール地点へと移動するのには


スタート地点とゴールとの半分の距離にある

地点1を通過しなければなりません


太郎くんは地点1を通過しました



つぎに、太郎くんは

地点1とゴールとの半分の距離にある

地点2を通過しなければなりません


太郎くんは地点2を通過しました



つぎに、太郎くんは

地点2とゴールとの半分の距離にある

地点3を通過しなければなりません


太郎くんは地点3を通過しました



つぎに、太郎くんは

地点3とゴールとの半分の距離にある

地点4を通過しなければなりません


太郎くんは地点4を通過しました



つぎに、太郎くんは

地点4とゴールとの半分の距離にある

地点5を通過しなければなりません・・・・



このように地点の数は「無限」に増えていく


なので太郎くんはA地点からB地点へ

永遠に移動することはできない



このパラドックスは


あらゆる存在が

ある地点から別の地点まで移動することが

不可能であるという

運動の完遂についてのパラドックス


さらには、運動そのものの

概念についてのパラドックスです







飛ぶ矢は動かず



ゼノンの「飛ぶ矢は動かず」というパラドックスも有名です


【 飛んでいる矢も

その一瞬一瞬を考えれば止まっている


瞬間とは点であって延長を持たないから

ある瞬間における矢は動いていない


瞬間をいくら足していっても

矢は動いていないはずである 】



ゼノンは一瞬という時間を

点という面積におきかえて

「時間は存在しない」と論じたわけです







抜き打ちテストのパラドックス



「抜き打ちテストのパラドックス」

なんていうのも楽しいす


ある教師が、学生たちに

「来週の月曜日から金曜日までのいずれかの日にテストを行う

抜き打ちテストだから、テストが行われる日はおしえない」と予告する



これを聞いたある学生は

「どの日にテストが行われるかは、当日にしか分からないのか


でもまてよ、月曜から木曜まで抜き打ちテストがないと

木曜日の夜の時点で、翌日=金曜がテストの日である

と予測できてしまう


これでは抜き打ちとは言えない

だから金曜日には抜き打ちテストを行えないぞ」 →



じゃ、木曜日にテストがあると仮定してみるか

すると、月曜日から水曜日までテストはないことになり


水曜の夜の時点で

木曜か金曜のどちらかの日にテストがあるという予測がたつ


ところが、金曜日にはテストが行えないから

木曜がテストの日だと分かってしまう


これも抜き打ちとは言えないので

木曜には抜き打ちテストを行えないはずだ」 →



同様に推論していくと

水曜日、火曜日、月曜日にも抜き打ちテストが行えないことになる


したがって、先生はいずれの日にも

抜き打ちテストを行うことができない!!

と結論した



ところが、金曜日に

先生が「では今から抜き打ちテストを行う」と宣言する



そこでこの学生は

「テストは不可能です。昨日までテストがなかった時点で

今日、テストがあることは確定しています

つまり抜き打ちになりません」

と反論する



すると先生は「君は今日テストが行われないと思っていたわけだね

それなら抜き打ちテストは成立しているじゃないか」と言った


未来の出来事を予測したときに生じるパラドックスだといいます








全能のパラドックス



この他

全能者(全知全能の神・創造主)は

<何者にも重すぎて持ち上げられない石>

を創造することができるか?


という「全能のパラドックス」というのも面白いです



<何者にも重すぎて持ち上げられない石>となると

全能の神も持ちあげられない→ 全能ではない

ということになります



同様に、全知全能の神は

<自分より賢い神>を創造することができるか?


もし、創造できないとすると、全知全能ではないし


創造できるとするならば

その者こそ、全知全能であって


全知全能の神はは全知全能ではない ということになるわけです







親殺しのパラドックス



親殺しのパラドックスは

タイムトラベルにまつわるパラドックスで

フランスのSF作家ルネ・バルジャベル(1911~85)が

1943年の著作で描いた話です


タイムトラベラーが過去へ行って

子ども(自分)を生む前の親を殺した場合

自分もまたこの世に存在することが不可能となる


すると、そもそも過去へ行って

殺人を犯すことが不可能になる

という矛盾であり


だからタイムトラベルは「偽」であるという話です



類似の話に

時間を遡って赤ん坊時代の自分自身を殺すという

「等価なパラドックス」ものもあります



このパラドックスの反論としては

過去は決して改変できないとか


過去へのタイムトラベルは

別の時間線を生み出すだけであるとか

いったものがあります



前者としては、親を殺そうとしてもその試みは失敗し

親は必ず生き延びるなんて話になっています







ニューカムのパラドックス



1960年代後半に、アメリカの量子力学者

ウィリアム・ニューカム(1927-1999)という人が考案したものです



AとBの2つの箱があって

Aには1億円、Bには2億円、入っている



解答者には


① AとB2つの箱を選ぶ

② Bだけを選ぶ


の2択が用意されている

(Aだけを選ぶという選択肢はない)


選んだ方のお金を受け取ることができる



さて、あなたはどちらを選びますか?


①を選びますよね



ところが、未来を予測できる超知的生命体が存在し

あなたが①を選択すると分ると、Bの中身をゼロにしてまう

つまり、Aの1億円しか受け取れない


②を選択した場合は、そのままBの2億円を受け取ることができる

という条件がついています


それならば、あなたは①と②、どちらを選びますか?


というのがこのパラドックスです



その条件つきなら、②を選んで2億円もらうに決まっているから

パラドックスにならないのではないのか?

という話になりますよね



しかし、あなたが②を選んでから、①に変更すれば

3億もらえるのではないか? というのが

このパラドックスの本質なのです




あなたが②を選んだとき(過去)

Bの箱には2億円入ることが確定しています


超知的生命体がどんなに未来を予測できても

過去は変えることができないので

①に変更しても、Bの箱はゼロにならないので

AとBの3億円を手にすることができるはずだ という理屈なのです



一方、いやいや、超知的生命体は

あなたが変更することを知っているのだから

①に変更したら1億しか手にすることができないはずだ

という理屈も成り立ちます



以上の2つの理屈に対し

哲学者も数学者も50年以上も答えが出せないでいるとされています



哲学では決定論(未来は決定されている)と

自由意志(未来は決定されていない)の対立に結び付けて

論じられたりもしているようです



しかしこのパラドックスは

単に、超知的生命体の未来予知の定義が曖昧

ということからおきているにすぎません







モンティ・ホール問題



モンティホール問題という

YouTube動画があったので紹介させていただきます

https://www.youtube.com/watch?v=DLPCKALdQ0o



動画投稿者のことラボさんによると

ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン

(1908~2000・アメリカの哲学者、論理学者)が

パラドックスを以下の3つに分類しているといいます



クワインに関しては

価値論 分析命題と総合命題について

を参照




パラドックスとは、人間の直感に反する主張ですが

クワインの分類の3つとは以下になります


① 一見信じがたいが真実を語っているパラドックス

② 嘘が含まれているパラドックス

③ アンチノミー(二律背反)



②の代表が、アキレウスと亀 です

(永遠に追いつけないのではなく

追いつくまでの距離と時間を刻んているだけ)



③のアンチノミーは

真実とも嘘とも言える解決不可能なパラドックスです


すべての盾(たて)を貫く矛(ほこ)、すべての矛を防ぐ盾

というような相反する二つの

「命題」(真であるとか、偽であるとかいった主張)が

同時に成立する状態をいいます



この代表が、自己言及のパラドックス(嘘つきのパラドックス)です



③については以下の歴史があります



カントール(1845~1918・ドイツで活躍した数学者 によって

「集合論」と呼ばれる数学の分野が発明されました


この集合論は、集合という概念だけで

あらゆる数学の概念を説明できる理論であり

現代数学にとてつもない影響を及ぼしているといいます



ところが、しばらくすると

バーランド・ラッセル〔1872~1970・イギリスの論理学者

数学者、哲学者。ノーベル文学賞を受賞〕によって

前述した「ラッセルのパラドックス」が明らかになります




集合論によって、数学の全てが説明できるわけですから

集合論の矛盾はそのまま数学の矛盾ということになります



そこで、現代数学の父と呼ばれる

ヒルベルト(1862~1943・ドイツの数学者)は


集合論の公理系(公理の集まり)を整備し

完全性(全てが証明あるいは反証できる)と

無矛盾性(どのような推論に対しても、決して矛盾が導かれない)とを

実現しようと、数学者たちに呼びかけました




これが「ヒルベルト・プログラム」です


これには、数学の危機を救おうと多くの数学者たちが参加したそうです



ところが、そんな中、クルト・ゲーデル(1906~1978・

オーストリア・ハンガリー帝国出身の数学者)が

「不完全性定理」を証明しまったのです




不完全性定理には

第一不完全性定理と第二不完全性定理があって



第一不完全性定理は

公理系の表現力が一定以上となった場合

完全性と無矛盾性とは両立しないというものだそうです



具体的には、ゲーデル数というものを用いて

ある条件を満たす自然数論においては、どんな工夫をしても

「自己言及のパラドックス」が生じることを証明したといいます



「自己言及のパラドックス」と

前述の「床屋のパラドックス」とは

概念という広い意味においては、同質です




パラドックスの最も基本的なものとして

古代ギリシャの哲学者

エウブリデス(紀元前4世紀頃・アリストテレスと同時代の人)

が作ったとされる「嘘つきのパラドックス」

(自己言及のパラドックス)が知られています



ある男が「私が今言っていることは嘘だ」と言った

この言葉が「真」なら、彼は嘘をついていることになる

この言葉が「偽」なら、彼は本当のことを言っていることになる


したがって、男が嘘をついているなら彼は真実を述べている

男が本当のこと言っているなら彼は嘘を言っている

という逆説です





第二不完全性定理では

第一不完全性定理で示される

「証明も反証もできない命題」の一例が

自分自身の無矛盾性を表す命題であることを証明しています


要するに、論理式 f が、 f 自身の無矛盾性を表現している場合

f を、証明も反証も出来ないということです


「私が今言っていることは嘘だ」を

証明も反証も出来ないということです




この不完全性定理は

「数学を基礎にした自然科学によって、世界の全てに答えを出せる」

と信じていた数学界に


「ゲーデルショック」と呼ばれるほど、大きな衝撃を与えたといいます



≪数学の真理を積み重ねていけば

いつかは神の真理にたどりつけるはずだ≫

という信仰を、根底から崩壊させ


数学者たちに「数学は考えていたほど万能ではなかった」

ということを悟らせるに至ったのです




つまり、アンチノミーを解決するのには

≪嘘≫いう言葉というか概念に、新たな定義をつくってあげないとならない

ということなわけです




話を戻します


モンティホールとは①の代表であり

人間の理性や直感に反するが、論証可能なパラドックスです



モンティホールとは

アメリカのテレビ番組の司会者の名前からきているそうです


3つの扉のうち1つが当たり(車)で、他の2つはハズレ(ヤギ)です


解答者がこのうち1つを選びます


次に、司会者が残りの2つの扉のうち1つ(ハズレ)を開けます

(司会者は正解を知っている)



さて、解答者は扉を変えた方が当たる確率が高いのか?

変えない方が当たる確率が高いのか?

というのが、モンティホール問題です



変えても変えなくても1/2の確率で一緒でしょ?

という考えに対し


マリリン・ボス・サバント(1946~・アメリカのコラムニスト、作家、講師)

という女性が

「変えた方が当たる確率が高い」という答えを出し

当時の数学者たちを驚愕させたそうです






彼女は、『ギネス世界記録』で世界一知能指数(IQ228)が高い人間

その記録を現在も保持しているといいます



モンティホール問題では当初は批判が殺到したが

いずれ正しいことが証明されたとされ


今では、【 数学史上、最も議論を巻き起こした問題 】

と宣伝されています





知り合いの国立大学のアルゴリズム教授に

分かりやすく解説してもらいました




教授: まず、動画では正解は 右 として議論していました

これはどこであっても話は同じなのでいいでしょう


解答者は左、真ん中、右を選ぶ確率はそれぞれ 1/3 です



このうち、①左と②真ん中を選んだときは

選択した扉はハズレです


ですので、扉を変更すると当たります


一方、③右を選択したときは当たりなので

扉を変更するとハズレます



ということは「選んだ扉を変更する」

という戦略を実行すると

最初の①と②の場合には当たり、③の場合だけはずれます


したがって、扉を変更したときの当たり確率は

(1/3) × 2 = 2/3 となります




緋山: 1つ疑問があります


解答者が最初に「正解」を選んだ場合

司会者は、2つのどちらかを選ぶことができますよね


 転  写



黒の指があるのが、解答者が最初に選んだ扉です


解答者が最初に「正解」である右を選んだ場合

司会者は、左と真ん中のどちらかを選ぶ(開く)ことができます



すると


 転  写


ではなく






こうなるのでは?




教授: 解答者が右(正解)の扉を選択したときに

司会者は左の扉と真ん中の扉のどちらかを開くので

事象としては2通り存在しますが


それぞれが起こる確率は

(1/3) × (1/2) = 1/6 となるだけなので


解答者が左を選んだとき(確率1/3)

真ん中を選んだとき(確率1/3)とは

生起確率がそもそも違います


単純に4通りあるじゃないか! という話にはなりません






緋山: では、この動画の999個の話はどうですか?

https://www.youtube.com/watch?v=4cxaL6-MuA8








【 モンティホール問題の確率(1/2ではない)が正しいのは

数を増やすと理解しやすい


1000個の箱のうち1個に当たりがあります


最初に解答者が1個(当たりかハズレかは不明)を選びます


残り999個のうちの1個を残して

998個のハズレ(司会者は正解を知っている)を開けます


(残りの1個が当たりなのか、最初に解答者が選んだ1個が当たりなのかは不明)



解答者が最初に選んだ1個と

999個のうちの残り1個とでは

後者の方が当たる確率が高いことは、誰が考えても明らかですよね 】


ということです



これと同じ説明は

モンティ・ホール問題を解説する解説webページ

やYouTube動画の8、9割に見られます




”人類最高のIQ” vs ”全米の数学者”!「モンティ・ホール問題」

https://www.youtube.com/watch?v=ARgvOY9ehQ4








緋山: 単純に、以下の疑問が起きますが・・・・


【 100個のうち当たりが1つある宝くじを

自分が1つ買っていたとします


抽選日にくじが1つ1つ開封されていき

それらがどれもハズレなら


当然、その分

自分の買ったくじの当たる確率は高くなっていくはずです


100個のくじうち30個ハズレとなった時点で

自分の買ったくじの当たる確率は

1/100から1/70になるはずです


同様に、解答者が選んだ1個の当たる確率は

最初は1/0000でも

箱が開けられていくごとに確率が下がっていき

998個の開けられたときの当たる確率は

1/2になっているはずではないのか? 】




教授: この問題の勘違いしやすい点は

98個の扉(くじ)をどのように開封したか、にあります


・ 100個のくじの中から1つを買ったとします

・ 残りの99個の中から98個を選んで開封します

・ 開封した98個のくじは全てはずれだとします


このときに自分の買ったくじが当たる確率は?


我々がこの問題を考えるときに

開封されるくじは「無作為」で選ばれたものである

という暗黙の前提があります



この場合

99個の中から残された1個のくじも

「無作為」に選ばれたことになります


もちろん、自分が購入したくじも「無作為」に選ばれています


両者のくじはともに「無作為」に選ばれたのだから

当たる確率も同じになります




( そもそも、98個のくじが全てはずれるのはレアケースで

大抵は98個のくじの中に当たりが含まれます


なので全て無作為で選ばれた場合は

レアケースの中での当たり確率を議論することになります )



しかし、モンティ・ホール問題では

99個の中から「作為的」に1個のくじが残されています


ですので、暗黙の前提がそもそも成り立ちません



これこそが

このパラドックスの正体です



「作為的」に残されたくじと

「無作為」に選ばれたくじとでは

当たりの確率が異なるのは当たり前の話です





緋山: 解答者にとって

当たりの確率は、最初に選んだくじが1/10

残りの9個のうち8個あけた残りの1個の確率は何分の何

になるのですか?



教授: 解答者が10個のくじから1つを選ぶので、当たりの確率は 1/10 です

これはモンティ・ホール問題であるかどうかには無関係です



ここからがモンティ・ホール問題であるかどうかで変わってきます




【残りの9個のくじから8個を
無作為に選んで開示するとき】



・ 開示する8個のくじの中に当たりがある確率は 8/10

・ 最後に残るくじが当たりである確率は 1/10

です


解答者の当たりの確率と合わせて

(1/10)+(8/10)+(1/10) = 1 となります


(確率の合計は常に1となります)



では、解答者の引いたくじと

最後に残されたくじの当たり確率が 1/2 になるとは

どういうことなのか?


これは

開示された8個のくじの中に当たりがなかった

という条件の下での確率が 1/2 であるということです



開示された8個のくじの中に

当たりがない確率は 2/10 であり


この 2/10 の確率が起こってしまったあとの確率を議論したときに

それぞれの当たり確率は (1/10) ÷ (2/10) = 1/2 となります


この確率は条件付き確率と言われているものです




【モンティ・ホール問題】


モンティ・ホール問題では

解答者が当たりくじを引かなかった場合

(残りの9個のくじの中に当たりがある場合)

当たりくじを残して、8個のはずれくじを開示します

ここに大きな違いがあります


ですので

・ 最後に残ったくじが当たりである確率

(=解答者がはずれを引く確率) 9/10 となります


これで、(1/10)+(9/10)=1 となります



最後に残されたくじの当たり確率が 1/2になる場合では

8個のくじの中に当たりが入っていてもおかしくないのに


当たりが入っていなかった(ある場合が否定された)ために

解答者のくじの当たり確率が増えますが


モンティ・ホール問題の場合は

8個のくじには最初からはずれしかない

(否定された場合はない)わけですから

解答者のくじの当たり確率が増えることは決してありません




緋山: 解答者にとっての当たりの確率は

無作為に選ばれたくじと

作為的に選ばれたくじとでは

1/全部:(全部-1)/全部 となる


全部が1000個なら、1/1000:999/1000

全部が3個なら、1/3:2/3



モンティ・ホール問題とは

この1/3の確率を、2/3の確率に

また、1/1000の確率を、999/1000の確率に変えると

確率が上がるということですね






緋山: それから 【 解答者が選んだくじも、司会者が残したくじも

ともに「無作為」に選ばれたとしたならば

当たる確率も同じになる 】ということですが


すると仮に、司会者が正解を知らずに

無作為にハズレの扉を選んだ場合


解答者が選んだ扉も

司会者が選ばなかった残りの扉も

当たりの確率は 1/2 になる ということになりますよね



教授: そうです




緋山: これに関して、正解を知る司会者が

作為的にハズレの扉を選んだ場合でも

無作為にハズレの扉を選んだ場合でも


【 最初に選んだ扉を変更する

という戦略を実行すると

最初の2つの場合には当たり、最後の場合だけはずれる 】

という法則には関係ないのでは??


と疑問をもつ人もいるでしょうから

明確化しておきます



前述したくじと全く一緒です


10個の扉があったとします


最初、解答者が選んだ

扉の当たりの確率は 1/10 です


司会者が、他の9個の扉を

無作為扉に開けていきます


8個開けて当たりがなかったとき

残りの2つのそれぞれの確率は1/2です


残りの2つとは

解答者が選んだ1つと、司会者が最後に残した1つです


この状況において

解答者が、司会者が最後に残した1つに変更したところで

当たる確率は、1/2が1/2になるだけです




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